2007年10月24日

理解と曲解


神は血を求めない 

宗教の源はそれぞれの創始者とされる人物が民衆に説く“生きるための教え”であった.

その教えが多くの人々の共感を得て広まり体系化された結果,創始者は“神”となり教えは“宗教”と呼ばれ現在の姿になったと言えよう.

このような前提に立てばその創始者が暴力を推奨したり血を代償として求めるような内容を説いたとは考えられない. 何故ならそのような過激な論理は“生きるための教え”として成立せず,一般民衆の支持を得られないからだ.

初期の教えが体系化される過程に於いて,外部から迫害を受けたり自己防衛の手段を目的に,力の行使を容認するかのような表現が後から教義に追加された事は考えられる. しかしそれは当初の教えを否定されたり自らの生命の危険を察知した場合を想定していた筈である.

現代の宗教的過激組織が神の名に於いて行使する武力は,当然ながら当初の教えとは相容れないものであり,また後に追加された(かも知れない)力を容認するような状況にも該当するものではない.

彼等は自らの利益を最大化するために教えを曲解して利用しているに過ぎず,言葉を代えるなら宗教(神)を自らの欲望の現実化に利用している,正に冒涜者そのものなのである.

信者の血を求めるような教えはまやかしであり,そのような犠牲を求める者には教義を口にする資格は無い. “原理主義”を標榜する組織の内,少なくとも過激活動を繰り広げる連中はまやかしである. 

真の原理であればそこに暴力は含まれない.
教義の根本を理解する者は暴力に加担しない. 

“異宗教間サミット”の共同声明の内容が多くの信者に伝わり,無意味な自己犠牲による殺戮や,意図的に作り上げられた憎悪が世の中から姿を消す事を祈りたい.
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