2007年06月22日

“捕鯨”という漁業


祖先が代々携わってきた仕事を子供達に見せる事は意義深い.

例えそれが巨大な生物を解体するシーンであったとしても,家族や親戚もしくは地域の人達が従事し生活を維持してきた作業を目の当たりにする事は,貴重な学習であり文化の継承とも言えよう.

そしてこれに対して「生き物を殺すシーンは残酷」と意見するのは綺麗事である.
遊びやレジャーとして,ましてやストレスの捌け口としてそのような行為に及ぶのは残酷であり,批判したり保護策を訴えるのには筋が通っている.

しかし生きるための生業として永く従事してきた収穫作業を同列にするのは筋違いと言えよう.
貴重な動物蛋白源としてだけにとどまらず,生活を維持するための日用品,薬,道具や部材として余す所なく活用されてきた鯨は,歴史的にも文化的にも捕鯨に従事してきた人々やそれを待つ人達にとって欠く事の出来ない,そして有り難い“収穫物”である.

人間は自らの生体を維持するために他の動植物を捕獲して食さなければならない.
地上の動植物全体を食物と言う観点から見れば,人類はその頂点に立ち生死与奪を決めて口に運ぶ罪深い生き物である.
そこに「○○は食べていいが××はダメ」という単一的な基準を,それも一方的に当てはめようとするのは身勝手と言えなくはないだろうか. 
(そう主張する人だって必ず何かの“命を奪って”食する事でしか生きられないのだ.)

食用にする家畜を屠殺場で解体処理する光景は,一般の人には余り目にする事のないものであり,それを見て「生き物を殺すシーンは残酷」と言うのは自由であるが,食肉用として生き物を殺す行為に反対する人が(勿論存在はするだろうが)少ないのと,鯨に対して行われるそれとは同列に扱われるべきと考える.

小学生が成長して捕鯨に従事するかは問題ではなく,自分達の祖先がどのように海と向き合い,どのように生きる知恵を蓄えてきたかを知る事に意味があり,この先彼らが海やそれを取り巻く環境に対してどのように接するべきかを考える一助として,永く継承されてきたた地域の産業に接する社会学習は必要であろう.

このような沿岸捕鯨に従事してきた人々は漁師であり,彼等は魚やその他魚介類を捕獲して食用や生活の糧に交換する事で生きてきた. そこでは小さい魚か大きい“魚”か,魚類か哺乳類か,そして他の国で行われているかいないかは関係ない.

捕鯨の歴史は石器・土器時代にもその痕跡が見られ,万葉の頃の書物にも江戸時代の絵画にも記録がある.(日本の捕鯨が明治・昭和以降とする意見があるが,それは機械化・組織化された近代捕鯨であり,沿岸捕鯨のルーツを明らかにするのは日本人の起源をたどる位難しい.)
ペリーが浦賀に来航して開港を迫った理由の一つが,米国捕鯨船への補給目的であるのもまた歴史の一部である.

このような背景を顧みずに,環境や動物保護などを名目としながら科学的根拠なく反対する勢力には,断固とした反論を唱え文化の継承と不干渉を貫くべきと考える.

最後に「鯨は余り食べないし,美味しいと思った事もないから,捕鯨出来なくなっても構わない.」と思う人達へ一言.

全国民(勿論貴方も含め)が食べる必要はないんです.
(安い予算で賄われる)給食で食べた記憶のある人もそれだけで鯨肉の味を判断しないで下さい.
美味しいと思う人は沢山いて食べられなくなるのを嘆いている人もいるんです.
鯨を獲って生活している人達がいるんです.
昔からやって来た事を止めろと理不尽な主張を押し付けようとする人達がいるんです.

あくまでも個体数を減らさないという大前提が守られるならば,自分の国の沿岸で永く行われた漁業や食文化に他国がその価値観を強制するのはおかしいと思いませんか?

「エスキモーはいいけど日本の漁民はダメ」っていう主張を認めるIWCはどう考えたっておかしい.
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